『トイ・ストーリー5』を観た。おもしれ~。
バズの話は1作目で解決してるし、ウッディの話は4作目で畳んだ。
5作目はさて何をやるんでしょう、と思っていたが、ジェシーと子供の話だった。なるほどね!!
カウガールのオモチャ・ジェシーの物語は、これまでと同様、オモチャとしての生き方の話だ。
解決していなかったトラウマに向き合い、彼女は人生を前に進める。
平行して、今作では子供側の「遊び方」が重要なポイントになっていた。
そして、現代の「遊び方」について描かれた結果として、『トイ・ストーリー』1作目で描かれた”敵”と改めて対峙することになる。
念のため、タブレットのリリーパッドは”敵”じゃない。持ち主のボニーを想う気持ちの強さは、ジェシー達となにも変わらない。
思えば、シリーズの明確な敵キャラって、プロスペクターとロッツォだけではないだろうか。妄執や支配欲に溺れた哀れなジジイたち。
『トイ・ストーリー4』に登場するギャビー・ギャビーは強引なキャラではあったが、きちんとウッディ達と和解して明るい未来に踏み出すあたり、ヴィランとは言い難い。
1作目に登場したシドはどうだろう? 自分のオモチャのみならず、妹のオモチャまで悪趣味に勝手に改造する児童だ。
いかにも敵っぽいし、子供の頃は「な、なんて嫌なヤツなんだ」と思っていたが、ヴィランとはちょっと違うと思う。
そりゃまあ、いまだに「な、なんて嫌なヤツなんだ」とは思うけど、だってシドは子供だ。アンディと変わらない年齢の、たぶん小学生だろう。
シドはオモチャや周囲に対する思いやりに欠けた子供として描写される。ウッディやバズにとってはとんでもない脅威だ。
だけど、それってシドだけのせいか? シドの親はなにしてるんだ?
バズが犬に追われてシドの家に逃げ込むシーンがある。
犬は凶暴だが、ビール缶を床に転がして眠っているシドの父親には近づかない。
バズが間一髪助かるとともに、点けっぱなしのテレビのCMで「自分はオモチャだ」と知る重要なシーンだが、大人になるとそこ以外も目に付くようになった。
この寝ている父親、コイツはシドと話せているだろうか。誰かを、何かを、息子が傷つけているとき、彼に寄り添っているだろうか。
作中の描写の限り、どうもそうじゃなさそうだ。
僕が思うに、ウッディたちオモチャが対峙した”敵”の本質はこれだ。
環境が生んだ、思いやりや想像力の欠如。
『トイ・ストーリー5』でも、別角度からそれが描かれる。
ボニーのご学友たちは、オモチャで遊ぶボニーをグループチャットであからさまにバカにする。
彼らは、それがボニーを傷つけていることに、おそらく想像が及んでいない。シドと同じだ。
インターネット古強者のみなさんはもちろんご存じだろうが、ネットの向こう側には顔が見えなくても人間がいるのだ。
しかし、この原理原則を古強者でも時たま忘れてしまう。生まれて10年も経っていないボニーのご学友たちは、言わずもがなだろう。
本来は、保護者などの大人が教えるものだ。「人を傷つける道具にしちゃいけないよ」と。
あと、「半年ROMりなさい」「コテハンはやめなさい」「**語録系は基本スベってるから、どうしても言いたければ内輪かつ密室にしときなさい」など。
だけど、作中の親たちは、ほとんど自分のデバイスに夢中だ。子供も自分のタブレットに夢中。
デバイスが悪いのではなく、このお互いへの無関心が良くない、と匂わされている。
こういった要素は、言うなれば親世代への説教に近い。
「もっと子供と話しましょうや」という。それはもう、その通りです。
同時に、オモチャの冒険とボニーの成長の描写は、ホントにもう、相変わらず楽しい。
バズとウッディの活躍ぶりもちょうど良い。今回はジェシーとボニーが中心なので、彼らはいかにも「前作の主人公」という感じでアシストしてくれる。
新登場のリリーパッドやスマーティ・パンツ、大量のハイテクバズ達は、今の子供たちが当たり前に触れるオモチャやガジェットだ。
これまでのオモチャの生態系を壊す連中だが、思えばバズ・ライトイヤーもそういう登場の仕方をした。
ジェシーとリリーパッドは、お互い相棒のようなセリフを交わして終わる。ここも1作目の踏襲だろう。彼女たちが、新しいウッディとバズなのだ。
好きなシーンは、ブルズアイと多すぎる馬たちが草原を駆けるところ。今回、数の多さとウンチで笑わせようとしてたな。
ボニーがブレイズに話しかけられず、もじもじするシーンも良かった。あそこで劇場の小さき子供たちから「がんばれぇ~」「がんばって」と優しい声があがったから。
君たちは、その思いやりを忘れないでほしい。本当に。
たとえネットに触れても、決して忘れないで。それに、絶対に半年ROMってくれよ。


