泡に覆われた人生

*ウンコの話をします。

都内のスタジオで大きいお花を摘んでいて、ふと気が付いた。

便座内がフワフワの泡で満ちている。

そして、ウンコ本体がフワフワの泡で見えない。

いや、別にいい。便座くん、ご配慮ありがとう。

自分が出したはいえ、見たくないときってあるもんな。

このフワフワの泡の”隠す力”たるや、その後落としたトイレットペーパーすら飲み込んで、影も形も見えなくするほどだ。

おまけになんのニオイもしない。

ちょっとの不快感も与えませぬぞ、という強靭な覚悟を感じる。

すごいトイレもあるもんだな、と思いつつも、ある不安がよぎった。

幼少期からこのトイレを使って育ったら、”ウンコ”を知らない人間が出来上がってしまうのでは?

物心ついたときからフワフワ泡タイプのトイレだけを使う、大富豪の子供がいたとしよう。 出したモノも、拭いたペーパーも、すべては泡に覆い隠される。 そんな生活に疑問を持つことなく、やがて成人して一人暮らしを計画。 豊かな実家を飛び出し、ワンルームで新しい人生を始めるのだ。 不安と希望が入り混じる、転居初日。 ふと便意を催し、急いでトイレに駆け込み、無事に事を済ます。 便座から立ち上がり、ふと視線を落とすとそこにはー マジでどうなるんだろう。気絶するんじゃないか。

転転飯店とでかい墓石

転転飯店のコント公演『スケスケ・ア・ゴーゴー』を観に行った。

涙が出るくらい笑った。本当におもしろかった。

劇場も満員で、全ネタばっちりウケていた。

平山犬(大学の後輩かつ、お友達)が書くコントが好きなので、たくさんの人が見るようになり、勝手に僕も嬉しい。

彼は、「人をいやな気持にさせたくない」という願いと、「なにがなんでもウケたい」という欲求を、矛盾することなく脚本にできるヤバい人間の一人だ。

その二つを両立させることは異常に難しいにも関わらず、なんかずっと飄々とやってのけている。

 

衝撃を受けたのは中盤、舞台の転換時であった。袖から、でかい墓石が出てきたのだ。

小柄な人間サイズくらいの、リアルで存在感のある小道具の登場。

なぜか感動してしまい、「ウワー」とちっちゃい声がでた。

前の公演ではきっと作れなかったであろう、でかい墓石。

前よりスケールアップした劇場だからこそ映える、でかい墓石。

 

そんなでかい墓石を、中村くんが抱きしめ、横倒し、一心不乱に掃除している。

 

めちゃくちゃ面白かった。物理的にでかい墓石が”そこにある”からこそだ。

前ならマイムでやっていたであろうネタが、でかくてリアルな小道具を使ってできる。

 

成功の基準は人それぞれだし、上を見上げたらキリがない。

けど、「でかい墓石を好きにできるようになった」は、まぎれもなく成功の証だ。

応援している二人が、好きなことをやって成功するのは、ただただ嬉しい。

そのうちワイヤーで空飛んでほしいな。

 

あいさつ中学校

僕の通っていた中学校は妙にビーバップな世界観を引きずっており、転校初日に先輩に殴られた。

「挨拶がない」という理由だった。

理不尽すぎて驚いた。アライグマくんじゃないんだから。

ビンタを喰らいつつ、「挨拶がないと、なぜ殴ることにつながるのか」と聞いてみたところ、先方にも以下のようなロジックがあることが判明した。

 

①挨拶がない。

②ということは上級生をナメている。

③ナメられると他の下級生に示しがつかない。

④示しがつかないので、お前を殴るのはしょうがない。

 

とのことであった。いま、”しょうがない”で殴られてるのかよ。

そもそも、こういうビーバップなロジックは、ビーバップな人たちに適用されるべきなのではないか。

当時の僕はビーバップどころか、ギターがちょっと弾けるサツマイモみたいなもんである。

サツマイモの「おはようございます!」がそんなに欲しいか?

サツマイモに挨拶されているところを見て、「なるほど、アイツはナメられてないなあ」と他のビーバップは思うのか?

 

そういった反論を一応してみたところ、「思うんだよ!」と言われ、もう一発ビンタを食らった。

思うのかよ。

 

翌朝、エントランスでその先輩が張り込みをしていた。そこまでやるのか。

もう殴られたくないので、「おはようございます~」と挨拶したところ、「おう」とだけ返された。僕には目もくれず、校門方面を睨みつけていた。

なんだ? 狙いは僕じゃないのか?

いぶかしんでいると、同じクラスの学級委員が僕に教えてくれた。

「寒川くん、いま近づかない方がいいよ。同級生のKが、アイツ怒らせちゃって。Kはいま、裏山を逃げ回ってるんだ。」

 

先輩の興味は完全にKに移ったらしい。

僕は翌日から先輩に挨拶するのをやめてみたが、お咎めは無かった。なんなんだ。

 

いま現在、その中学校に通う子に話を聞いたところ、ビーバップな雰囲気は皆無らしい。

その代わり、登校時に通りすがる車に「おはようございまーす!」と挨拶する習慣があるそうだ。

極端な地域だなあ。
 

 

ミッキー7

“テセウスの船”という思考実験がある。

偉大な英雄・テセウスが遠征に使った船は、後世のために大事に保管されていた。

しかし、経年劣化は避けられない。

ある日、傷んだ木材を修理のために交換した。あくる日は、破れた帆を交換した。

そのように修理と交換を繰り返し、100年経ったころには交換していない部品はひとつもなくなった。

見た目は100年前とまったく同じ船だ。しかし、本当に同じ船と言えるのだろうか?

 

『ミッキー7』(ハヤカワ文庫SF)の主人公、ミッキー・バーンズは”テセウスの船”を地で行く人間だ。

物語開始時点でミッキーはもう7回死んでいる。

死ぬたびに新しい肉体が作られ、”前の”ミッキーの記憶をインストールされて蘇り、また死地へと赴く。それが彼の仕事なのだ。

 

死んだミッキーと、新たに蘇ったミッキー。

さて、彼らは同一人物だろうか?

 

『月に囚われた男』や『オール・ユー・ニード・イズ・キル』のようなハードな世界観と発想のSFだが、面白いことに主人公のミッキーはアホだ。

軽薄、厭世家、そして浅慮。

タフな性格だから死が平気なのではなく、あんまり真面目に考えてないのだ。

特別なスキルもなく、行き当たりばったりの生き方で、生死どころか自身の同一性まで他人に明け渡している。

何度も何度も死ぬ。仮初の不死身人生から抜け出せない、徹底的な”持たざる者”。

そんな彼を待ち受けるのは、絶対起きちゃいけない大ピンチだ。

果たして人生終わっちゃうようなピンチを、人生を変えるチャンスにできるのか。

がんばれ、ミッキー!

『ミッキー7』 はそんな小説だ。読んでいて楽しかった。

 

ところで、本作をポン・ジュノ監督が映画化するそうだ。最高。

タイトルは『ミッキー17』となっていた。

さらに10回死ぬらしい。がんばれ、ミッキー。