オデュッセイア – マナーの鬼、見参

『オデュッセイア』は良い体験だった。
人類から「マナー」を奪ってしまった男が、めちゃくちゃ後悔しながら、少しでもマナーを取り戻そうとする話だった。

道中、チーズ作りが趣味の一つ目の巨人や、人間を捏ねて動物に変えちゃうおばさん等、人智を超えた連中と遭遇するが、それらは現実とも非現実とも明言されない。
すべてはオデュッセウスの幻覚かもしれない。
戦のしんどすぎる体験、そして自らの所業の罪深さに耐えきれず、ああいう風に語ることしかできなかったのかもな、と思った。

そんなオデュッセウスの旅を、バカでかいスクリーンで、バカでかい音で体験できるのは、映画館だけだ。
海が荒れて、雷が落ちると、ポップコーンの箱がびりびりと揺れる。
映画館でクリストファー・ノーランの映画を観るたび、「そうだった。この人は、音で観客をビビらすタイプでもあった」と思い出すのだ。
なにかド派手なことが起こると、本当に不愉快ギリギリの爆音が体を襲う。
キュクロプスの世にも恐ろしい絶叫、あれどうやって作ったんですか。耳をふさぐ寸前だった。

終盤は、急に『モニタリング!』みたいになる。
「ナメてたヨボヨボの浮浪者が、実は歴戦の戦士・オデュッセウスだったら?」というテロップが左上に表示され、右下では「殺される?」「殺されない?」と書かれたバーみたいなやつがクルクル回転していてもおかしくなかった。

作中で言及される『ゼウスの掟』は、オデュッセウスが解釈によれば「人と人の脆い絆を保つ」ルールのことだ。
贈り物や客人を大切にしたり、死者を弔うことで尊敬のバトンをつなぐ。
一見実利のない行動のなかに宿るのは、他者への思いやり、すなわち「マナー」に他ならない。

オデュッセウスは、トロイの木馬作戦において、それを破ったことを悟った。
トロイの木馬に限らず、ずっと前から行っていた、戦における侵略・虐殺・略奪こそ、絆を破壊する愚行だったことに気づいただけかもしれない。

そして、オデュッセウス不在の宮殿で乱痴気騒ぎを続ける客人たちも、それを破っている。
私利私欲のために、マナーを悪用して権力を手に入れようとしている。

オデュッセウスが旅路のなかで体験したすべては、マナー違反のしっぺ返しであり、本人もそう解釈した。
すべてのマナー違反に決着をつけます、マジすんませんした、という固い決意が引き起こしたのが、客人たちに向けた『モニタリング!』大暴れなのだろう。

マナーの鬼と化したオデュッセウスは、その正体を現した直後から、数十人を単独でボコボコにし始める。

人が大暴れに向かうロジックが積み上げられた作品は好きだ。
特に、普通は暴れない人が、暴れざるを得なくなるほど、理由が積み重ねられたものが。
結局は暴力でしか解決しえない悲しさや切なさが、「ホンマはこうなる前になんとかせなあかんのよね」という想いを強くさせてくれる。

ところで、今作で最も好きなキャラクターは、不埒な客人たちのリーダー・アンティノオスである。
「この人は、言い訳しようのないカスで、矮小な卑怯者です!」という描写がいっぱいある。嬉しいね。

オデュッセウスが暴れている間、マジでなにもしてなくて最高だった。
取り巻きが徒手空拳でオデュッセウス相手に頑張る中、「武器ガチャのナレーション」としか言いようのない役回りを見せてくれる。
彼にとってマナーなんかどうでもいいのだろう。
自分が快適で、尊敬されて、生きてさえいれば。他人はどうなっても気にしない。
彼もマナーの鬼からしっぺ返しを食らうが、そのやられ様が抜群で、僕は消音で拍手までした。

好きなタイミングでまた観たいけど、IMAXシアターはネトフリ感覚で観れるわけじゃないんだよな。
誰か自宅にIMAXシアターありますよ~、って方いますか。
僕と友達になりませんか?
あ、軽食も出してください。ほら、客人はもてなすものでしょう。

SNSでもご購読できます。