おばさん先生、辞書をひけ

時は2007年、僕は中学三年生。学校には行ったり行かなかったりしていた時期だ。

基本的に授業は退屈で眠たいものだったが、自分の高校受験に絡まない科目は退屈さに拍車がかかる。
美術や音楽ならまだマシだが、体育、技術、そして家庭科。
ソーイングにもクッキングにもドラゴンのエプロンにもあまり興味が持てなかった。その日の家庭科も、うつろな目で虚空を見つめている間に授業は終盤に差し掛かっていた。

「さて、今日は最後に少子高齢化社会について触れていきましょう。」

厚底のメガネをかけた、橋田壽賀子によく似た先生がそう言った。
割となにを聞いてもドライな対応というか、ちゃんと答えてくれないので、個人的には苦手な先生だった。

今日はテストに向けた座学だ。が、昼食後のせいか、集中力を保つのが難しい。
いちおう聞いておかなければ成績に響くので、淡々とした声に耳をすませる。

「…の世代、先生より一つ上の世代の…」

? なんて?

ダンコンダンコンの世代です。戦争のあと、たくさん赤ちゃんが産まれて、日本の復興のきざしになりました。これを”ダンコンの世代”と言います。」

おいおい先生。ダンコンの世代、って聞こえたぜ?
中学生男子たる僕の脳裏に浮かぶ漢字は「男根」一択。おちんちんを元気にポロリしたおじさん達が「俺たちが日本を支えてきたのだ」とほざくイメージが頭をよぎる。
いや、まあ、分かってるよ。『団塊(だんかい)の世代』のよくある誤読ですよね。
別に全然、ウケるほどでもない。どうでもいい。そのまま授業を続行しておくれ。

ダンコンの世代の時代はね、社会もいろいろ大きな変化がありました。高度経済成長期、と言いまして、ダンコンの世代の人たちが…」

ダンコンの世代は人数が多いんです。なので、学校生活も1学年に8や9クラスなんてのも普通でね…」

「例えば、あなたたち世代とダンコンの世代の違いは他にもこんな例が…」

おい。連呼しろ、とは誰も言ってないぞ。

いくらなんでもこんなに連呼するもんかな。ヤバい、だんだん面白くなってきた。

ちらり、と隣に座る同級生に視線を送るが、彼は先ほどまでの僕と同様、うつろな瞳で虚空を見つめていた。そもそも先生の話など聞いていないのだろう。
考えてみれば、おちんちんの別称を教員が連呼しているにも関わらず、教室が静まり返っているにもほどがある。誰も気にしていないのだ。
この空気の中で、「ハイ、先生!ダンコンではなく、ダンカイの世代だと思います!」って元気に訂正するワケにもいかない。ハーマイオニー・グレンジャーじゃないんだぞ。

頼む、先生。自分で気づいて止まってくれ。

「はい、それでは皆さんノートを開いて。板書をしてください。」

先生は黒板に大きく『団塊の世代』、と書いたあと、ごていねいに『ダ ン コ ン』とルビを振った。

(無理だ!笑う!!)

僕はとっさに下を向き、大きく口を開けて笑い声を必死に逃がした。ありがとう、松ちゃん。アンタの技、借りたぜ。

授業が終わったあと、僕は先生に話しかけた。
けっこう迷ったが、間違いを指摘しておこうと思ったのだ。
先生はこのあと、荒れ気味の隣のクラスにも同じ授業をしなければならないはずだ。いかにも中学生がバカにしたくなるような誤読で、実際に授業中に笑いものにされるようなことがあったら、さすがに気の毒だ。

「先生、あの、さっきの授業なんですけど。」

あら、どうかしましたか。と先生。
彼女の表情からは全く感情が読み取れず、なんとなく緊張が走る。

「あの~、先生ずっとダンコンの世代、って言ってたんですけど、あれって読み方が違って。ダンカイの世代、って読むんです。」

「え?」

きゅっ、と先生の眉根に皺がよる。
やっぱりやめときゃよかったな、と身構えた瞬間、先生が声をあげて笑った。初めて見る笑顔だった。

「アッハッハ!おかしい!私ったら、じゃあずうっと間違えていたのね。今日の授業だけじゃなく、これまでずっと間違った読み方で!生徒には申し訳ないけど、面白くて笑っちゃう。とんでもない間違い方を!」

ダンカイ、ダンカイって読むんだったのねえ。ダンコン、ってねえ。と先生は繰り返し笑いながら言った。
あっけにとられながらも、僕もつられて笑っていたと思う。

「そうなんです、ダンカイなんですよ。辞書があれば確認できるんですけどね。ハハ。」
いやいや、と先生が手を振った。
「寒川くんがそう言うなら、ダンカイが正しいんでしょう。国語の成績がとてもいいと、担任の先生から聞いていますよ。」

えっ。意外と僕のこと知ってくれてる。嬉し。
リラックスした、温かい空気が流れる。なんだ、話しやすい先生じゃないか。と僕は思った。

「次の授業から直さなきゃね。」と先生は続けた。

「そうですよ、先生。あの読み間違いは…ほら、僕ら、多感な時期ですし。」と冗談めかして僕は返す。

その瞬間、一気に先生が真顔に戻った。

「それはどういう意味? ダンコンと、多感なことと、なにか関係があるの?」

なんでもないッス、お疲れッした!

僕は聞き取れないくらいの早口でそう言って、競歩くらいの早足で家庭科室を跡にした。調子にのるもんじゃないな。

先生、やっぱり辞書ひいてください。『ダンコン』で。

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