non-fic

文学フリマ

僕の家から最寄りの映画館まで、車で30分ほどかかる。
住んでいる町には本屋もなく、すなわちタワレコやディスクユニオンも無い。
ひとたび車がなくなると、すっかり文化から隔絶。そんな気分になる。

8月に車が壊れてからというもの、カーペットに突っ伏してインターネットを眺める生活を送ってしまっていたが、これは良くない。
文化的な生活は、自ら掴み取りに行くべきだ。

という訳で、『文学フリマ』の門を叩いた。
ドンドン! すいません、ビッグサイトですか。文学をください。

文学フリマは、いわゆる同人誌即売会の一種だ。
プロ・アマ問わず、みんなのオリジナル”文学”を、思い思いのやり方で表現する場所である。

何時間いたか覚えていないが、とにかくたくさん買った。
買った、というか。気が付いたらカバンが重くなっていたのだ。
日常におけるお買い物に比べて、”検討”のブレーキがかなり甘くなっていた気がする。
「あっ、ある。ください」の連続である。

あっという間にトートバッグはいっぱいになり、ヒモがギチギチと僕の左肩に食い込んだ。
次回はリュックサックで行こう。

現在、コタツテーブルの一角は、文学フリマで買った本と、その翌日にうっかり買ってしまった本で埋まっている。
本棚はすでにいっぱいなので、避難場所としてコタツテーブルが指定されているのだ。
この冬はこれらを読みながら、本棚を作って過ごそう。
車はどうなるかまだ分かっていないが、ちょっと文化が戻ってきたのではないだろうか。

テルミン・ミュージアム

全日本テルミンフェスに、出ます。出るんですよ。

にもかかわらず、演奏でテルミンを使っていない。どうしよう。

テルミンに対する知識も乏しいため、とりあえず実物をたくさん見てみたい。

というわけで、テルミン・ミュージアムに足を運んだ。
僕の住んでいる町はミスドすら無いのに、テルミン・ミュージアムはあるのだ。なぜ。

テルミン奏者の大西ようこさんが個人で蒐集したテルミンが、大量に展示されていた。

大西さん本人が案内・解説をしてくれるうえ、一部の展示物は試奏もできる。
ありがとうございました。相当ガイドしていただいたのに、一瞬も音程が取れなくてすみませんでした。

そもそも『テルミン』とは何かというと、電子楽器の一種である。

大きな特徴として、演奏時に手で触れないのだ。

機体に生えているアンテナに手を近づけたり、離すだけで、音程や音量が変わるようにできている。

テルミンのプロの演奏は、「い、今なにが起きてるんですか?」と言いたくなるくらいに魔法的だ。
テルミンが開発された1920年代には、本当に魔法に見えたんじゃないだろうか。

ところで、ミュージアムには黄色いギターがあった。
ZO-3(通称ゾウさん)、ショートスケールのアンプを内蔵したエレキギターだ。
僕が初めて持ったエレキギターでもある。

「大西さん、このギターはいったい?」

「あ、これもテルミンなんですよ」

絶対にウソだ、と思ったが、スピーカー部分に手を近づけるとテルミンの音が鳴りはじめた。
さらに驚いたことに、フェルナンデス社がオフィシャルで発売しているギターらしい。
わけわかんないモン作るなよ。

もちろん、ギター演奏も同時にできる。
というか、それ前提で作られた代物だと思われるが、どうやって演奏するのかは大西さんにとっても謎だそうだ。
ピッキングの際に手首はまあまあ固定されるので、スピーカーに内蔵されているテルミンを同時に操作するのは至難の業。
試してみたが、まったくうまくいかない。

テルミンギターに詳しい方、いらっしゃいましたらご一報お願いします。

さようなら、いままでお笑いをありがとう

※ 本稿には松本人志『VISUALBUM』収録のコント『古賀』のネタバレが含まれています。

映像コント『古賀』を忘れたことはない。

友人4人組でスカイダイビング寸前、というシーンから『古賀』は始まる。
「押してまうぞ!」「やめろや~!」などと、やんちゃなノリを繰り返している友人たちを尻目に、彼らの中の一人 “古賀” は、なんの前触れもなくヘリから飛び降りてしまう。
あわてて友人たちも続くのだが、着地地点に古賀は見つからず、彼らは最悪の事態を想像した。
警察に行くべきか? いや、ひとまず事情を報告しなければ、ということで、トボトボと古賀の実家に向かう彼ら。
恐る恐るインターホンを押すと、ガチャリとドアが開き、なぜか古賀本人が現れた。
「な、なんで家にお前おるんや!」
「いや、飛び終わったから、帰ってきただけやけど」
当たり前にそう答える古賀に、友人たちは絶句することしかできない。

美しいコントですよね・・・。
古賀は”空気を読む”という日常的な行為から、パワフルに逸脱した人間だ。
冒頭で友人たちが作っていた”ノリ”や”空気”は、古賀の意外な行動で壊れてしまう。
古賀はそれを気にしていない。恐れてもいない。
帰りたいから帰るし、「メシの時間なので」という理由で友人たちとの会話も打ち切る。
古賀には古賀の世界があるだけ。その事実をコントで切り抜いている。面白く、美しいと思う。

このコントを作った人を、僕は尊敬していた。
多面的で、奥行きがあり、なにより”人間”を感じられるコントが作れる人だった。

現在、彼の作るコンテンツはひとつも笑えない。

仮に僕に殺人の容疑がかけられたとしよう。
僕の出すコンテンツを鑑賞する人は「コイツ、殺人鬼かもしれないんだよな・・・。」という思考がぬぐえないはずだ。

その際、僕のすべきことは何よりも疑惑の払拭だ。
「やってません!なにかの間違いです!」と誰よりもデカい声で説明しないといけない。
疑惑は邪魔な想いと化し、ユーザーの鑑賞体験を損ねるからだ。

松本人志氏は、疑惑の払拭をしなかった。
性加害をしたのか、してないのか。
ちゃんとした説明もせず、裁判も途中でやめたから、よく分からないままだ。

どんなに面白いコントや番組が彼から出されても、「後輩使ってキショ行為をしていたかもしれないんだよな・・・。」と思ってしまう。

それが悲しい。

松本氏が曖昧なせいで、人は事実を予想する。
日常やネット上で、予想と予想を戦わせるバトルが繰り返されている。
予想と事実の境目も、また曖昧になっていく。
やがて、事実に目を向ける態度そのものに、否定的な声があがるだろう。

それも悲しい。

楽しいお笑いとは程遠い。

僕にとって『古賀』がコントの傑作であることは、今後も変わらない。
でも松本人志氏のコンテンツは、彼がちゃんと責任を果たすまで観ないだろう。

さようなら、松っちゃん。いままでお笑いをありがとう。

今のあなたがいなくても、僕は別にしんどくなかったよ。