2024年 8月 の投稿一覧

キーちゃんの夏

横断歩道の向こう側で、散歩中のダックスフンドが地面に体をこすりつけている。

天に腹を見せつけ、舌をベロンベロン振り乱し、やや白目を剥きながら、狂ったように背中を地面でこすっている。
本当におかしくなっちゃったのかもしれない。夕方なのに、気温は30°cを越えたままなのだ。僕も変になりそうだ。

信号が青になり、僕は歩道を渡るが、ダックスと飼い主の女性はその場にとどまっている。
ダックスがこすりつけをやめないからだ。

「キーちゃん、やめな! ほら、いくよ、キーちゃん!」

飼い主が声をかけているが、キーちゃんは止まらない。むしろ勢いを増して、グリグリグリン!!と全身を揺すっている。

「キーちゃん!ちょっと、フフフ。どうしたの、本当に。」

すれ違いざま、女性は笑っていた。そうだよね、長すぎるもんね。

「キーちゃん!ねえ、フフッ。 無くなっちゃうよ!そんなにしたら! キーちゃん、削れて無くなっちゃうよ!

一瞬だけ、キーちゃんと僕の目が合った。

信じられないぐらいキラキラしていた。

今日のキーちゃんは、もう無くなっちゃいたいのかもしれない。

地獄の猛暑を言い訳にして、価値や意味を超越した限界までいくのかもしれない。

キーちゃんの夏は、始まったばかりだ。

防水シートで生き残れ

電車がかなり苦手なので、たいていの場所へは車で行くことにしている。

飛行機も苦手。自転車はオッケー。バイクも平気。でもバスは苦手だ。ずっとそうだった。

運転免許を取ってから、「人生最悪~~~~!!!」という気分がかなり減衰したのを覚えている。
ギターやおもちゃ楽器(あとアイロン台)を、周りの人に頭を下げながら、バスや電車で運ぶ必要がなくなった。
ラジオを聴いて一人で笑っても怪しまれない。自分の車の中なら声を出して笑っていい。

どんなにガタガタする古い車に乗っていても、電車に比べれば天国だった。

快適さとは別に、「自分がコントロールできる」という点も重要だ。
電車やバス、飛行機の遅れや事故は、乗客の僕にコントロールできない。

車で目的地に向かうときは、道の選択やアクセルの加減は僕次第だ。
仮に事故にあって死ぬとしても、死の瞬間までに選択肢はいくつもある。
最後にハンドルをきるのは右か左か。ブレーキはどのタイミングで踏むか。どうせなら自分で選びたい。

これが飛行機だとどうだろう。「当機はこれから墜落します。スマソ。」とアナウンスされた場合、選べることはあまりに少ない。

飛行機に乗るたび思い出すのが、ラングドン教授だ。『ダ・ヴィンチ・コード』シリーズの主人公、ロバート・ラングドン。

彼は、爆発するヘリから、パラシュートなしで飛び降りたことがある。大学教授のおじさんなのに。

機内にパラシュートがないことが分かると、ラングドン教授が手に取ったのは防水シートだった。

4×2mのシートをガッシリと握って、高度3000mから川に向かってジャンプ!

大怪我したものの、教授は生還していた。

いくらなんでもウソすぎる、と思いつつ、いざ自分の乗った飛行機が墜落するのであれば、僕は防水シートを探すだろう。

防水シートがなければ、ひざ掛け毛布で飛んでみる。

それこそが、僕が選択できるわずかな手段だ。

悪夢のアムネジア

ゴツン。

後頭部に衝撃が走り、居眠りから目が覚める。

どうやら背面の壁に頭をぶつけたらしい。壁…。いや、待て。この壁はなんだ?

そのとき、記憶が綺麗さっぱり無くなっていることに気がついた。
ここはどこ。俺は誰。

行きかう人々の声が、ボワボワと抽象的に聞こえる。だが、なにも聞き取れていない。それらが言葉だとは思えない。

パニックになってしまう前に、俺はとっさに耳をふさいだ。

よし、とにかく、落ち着こう。
いま座っている、この長椅子は? おそらく…ショッピングモールのベンチだろう。

そうだ、そうに違いない。

一呼吸して、ゆっくりと顔をあげる。
耳から手を離すと、

「…うん、先にフードコート行ってるから…」「ええ、違うよォ、メガネのさぁ…」「…このガチャガチャさっきもあったな…」

よし、日本語が入ってくる。ここは日本。間違いなくショッピングモール。

となると、周りに置かれた幾つかの紙袋は、俺が買ったものなのだろうか。

ヴーッ。ヴーッ。ヴーッ。

突然の振動音に、思わずビクリと肩が震えた。紙袋の中から聞こえてくる。

スマホに着信が来ているのだ。紙袋を手繰り寄せ、何かの詰め合わせ箱の上に置かれたiPhoneを掴む。《恵美》と表示されているが、当然覚えがない。

一瞬悩んだが、出てみることにした。

「も、もしもし?」

「もしもし、じゃないでしょ!いま何時だと思ってんの?」

若い女性の声だった。俺と同い年ぐらいなのだろうか。というか、俺は何歳だ?

「とにかく、急いでアタシを迎えに来て。お父さんとお母さん、待たせたらヤバいのわかってんでしょ。ちゃんとお土産買ってるんだよね?」

「え、ええーと、そう。買ったよ、買った。ちょっと手間取っちゃって。ごめん。」

《恵美》の剣幕からして、あまり状況は良くなさそうだ。とにかく謝ってみることしかできない。

「じゃあ、もう来れるでしょ。急いでよ。そこのモール、結構郊外じゃん。今から出たってギリギリなんだから。」

「わ、わかった。」

「あと、ガソリンちゃんと入れること。身だしなみも最終チェックしてよ、結婚の挨拶なんだから。じゃ、待ってる。」

「あっ、ちょっと! あの」

電話が切れた。耳にスマホを当てたまま、体は固まったように動かない。
俺の名前も、年齢も分からない。しかし、大ピンチであることだけが分かった。

とにかく紙袋を引っ掴み、弾かれたように立ち上がる。
歩きながらスマホを操作してみるも、ログインできない。パスコードが思い出せない。
待ち受け画像は『親指タイタニック』のポスターだった。憎たらしすぎる。どんなユーモアセンスで生きていたんだ、俺は。

ポケットをまさぐると、駐車券とトヨタ車のキーが出てきた。
自動精算機に勢いよく駐車券を差し込み、1160円という半端な額を支払う。
ああもう、お釣りが多い!! クソが!! もどかしい!!

小銭をすべてポケットに突っ込んで、ジャラジャラとやかましく俺は走る。

「P(駐車場)」の矢印を追った先は、モールの外であった。

目の前にそびえたつのは、『ベイモール 立体駐車場 P1』。

その看板に、デカデカと『1000台駐車可能!』と書いてある。

震えながら周囲を見回すと、『ベイモール 立体駐車場 P2』。そして『ベイモール 立体駐車場 P3』。『P4』。

それぞれが1000台を収容できる、らしい。

ハアッ。ハアッッッ。

自然と息が荒くなっていく。4000台の中から、俺の車を、どう探せというのだ。

記憶がないのに!

しかし、諦めるわけにはいかない。俺と、俺の婚約者(たぶん)の未来がかかっているのだ。

フラフラと『P1』へと走り出す。

トヨタのキーはどうやら無線式だ。開錠のスイッチを押しながら、しらみつぶしに行けば、あるいは。

どうにかして、今日を乗り切るのだ。こんな不運で、人生を棒に振ってたまるか。


関東最大級のショッピングモール《ベイモール北晴浦》へようこそ!

《ベイモール北晴浦》へは、お車でのアクセスが便利です。

P1~P4(北駐車場)P5~P8(東駐車場)P9~P11(南駐車場)、さらに地下・屋上・平面駐車場あわせて、15000台駐車することが可能です。

入庫のストレスゼロを目指して、さらなる駐車場の拡大を計画しております。

心ゆくまで、《ベイモール北晴浦》でショッピングをお楽しみ下さい!

(了)