砂時計

父が車のウインドウから腕を出し、砂を捨てた。私が6歳のときの記憶だ。

人通りの少ない住宅街。砂はキラキラ輝いて空中に消えていく。後部座席の窓ガラス越しに、私はそれを目撃している。

サラサラ。サラサラサラ。サラサラサラサラ。いや、多くない???

全然終わらない。なにが起こっているのか分からなくて、そっと運転席の父の顔を伺う。完全な無表情。

チャイルドシートから少し身を乗り出して、父の右手に目を移す。まだ砂出てる。
父の手は確かに大きいが、そんな量の砂が格納されてるわけがない。

そもそも、なんの砂? まるでテレビで見た沖縄のビーチみたいに、真っ白できれいな砂に見える。
だが、いまはコープで洗剤を買った帰りだ。コープで砂、見たことない。

「お父さん、それなに?」と聞けば済む話だが、子供ながらなんとなく気が引けた。本当に海の砂に見えたから。

父は、砂浜がとても嫌いなのだ。なぜかは知らない。最低の思い出がある、らしい。

その苦手ぶりは筋金入りで、ディズニーシーがワイドショーで特集されているだけでチャンネルを変える。あそこに砂浜ないのに。
『プライベート・ライアン』も観ない。冒頭に海岸での戦闘シーンがあるからだ。
人がグロく死んでいく様子より、そのロケーションが駄目らしい。

パッパッ、と右手をグーパーさせたあと、父は窓を閉めた。終わったようだ。

「なあ、美伊子。」

急に声をかけられて、私はハッとする。
不思議と緊張してしまう。別に悪いことはしてないのに、なんとなくバツが悪いのはなぜだろう。

「なに、お父さん。」

「あのさ、やっぱりお昼、外で食べない? 国道沿いにフレッシュネスバーガーっていうお店が出来たんだよ。お父さんとそこでハンバーガー食べないか。」

えっ、ラッキー。

突然のハンバーガーチャンスに、すべてを忘れて心が躍ってしまった。砂とかどうでもいい。

「マックナゲットあるかな?」

「あるかもよ。」

父は笑いながらハンドルを切った。

 

******

 

父が運転する車の助手席で、その記憶がよみがえった。はるか昔、ほとんど30年前くらい。そんな奇妙な体験をした、ような。

平日でもそれなりに埋まっているパーキングに、父は妙にゆっくり駐車する。二人で車を降りると、生暖かい風が私たちを迎えた。

鎌倉の海岸に、私たちは初めて親子で訪れたのだ。

 

ここに到着するまで、会話らしい会話もなかった。

会うのも数年ぶりなので、積もる話は一応あるのだが、どれも楽しいものとは言い難いせいで、自然と口も重くなる。

好きなアニメの劇場版が制作中止になったこと。熱帯魚を育ててみたけど全然うまくいかないこと。結局子供はできなかったこと。離婚したこと。

別に落ち込んでいるわけではない。私は元気です。気が重いだけ。

一人暮らしの手筈も整っているし、仕事もうまくいっている。元夫と関係が悪いわけでもない。

センチメンタルな気持ちや、相談ごとがあって父に会いに行ったのではないのだ。
ただの気分。
人生が変わる節目ですし、一応会っといたほうがいいか、みたいな。

だけど、実家の玄関先で顔を合わせたとたん、父はこう言った。

「海に行こう。」と。

 

到着した海岸は広く、夕方でも人がまばらにいた。犬を散歩させる人、カップル、サーファー。

海を見つめる父の背中からは、なにも読み取れなかった。あんなに嫌っていた砂浜が、小さい坂道を降りればすぐそこだ。

 

マジでなんのつもりなんだろう。私を励ましたいんだろうか。

春先の海風は、まだ少し冷たい。気持ちはありがたいが、来たばかりだというのに私はもう帰りたかった。

「お父さん、ありがとう。無理しなくていいよ、帰ろう。」

そう言おうとした瞬間、父が走り出した。初老とは思えないスピードで。

 

腕をしっかり振りながら、坂道を転げ落ちるように下り、砂浜に着地。こちらを振り返ることもなく、海岸線を駆け抜けていく!

なにが起きているかわからず、一瞬体が固まったが、私もすぐに走り出した。追わないとヤバそうだ。そう直感した。

「ちょっと、お父さん!待って!!」

絶対聞こえているのに無視して、父は走り続ける。が、数十メートルも走らないうちに、明らかにペースダウンしていき、ついには仰向けにバッタリと倒れこんだ。

「おっ、お父さん、大丈夫!?」

ぜえっ、ぜえっ、と疲労感も露わな呼吸をしながら、ヨロヨロとオッケーサインを見せる父。
おじさんの全力の奇行に興味を示したのか、散歩中のコーギー犬が近づいてきて、顔を嗅がれている。

飼い主は「こんにちは~」と朗らかに挨拶し、父も「はぁっ、はっ、こん、こんにち、は~~!」と返事をする。

なにからなにまで、意味不明だ。

 

満足したコーギーと飼い主が去っていくのを見送って、私は父に向き直った。

「意味不明だよ、お父さん。」

「フゥーっ、フゥー…。だよなぁ。」

以前、大の字に寝転がったまま、ハハハ、と父は笑った。

「美伊子、これは初めて人にいうんだけどさぁ。お父さんな、一個だけ超能力あるんだ。」

「はぁ?」

「小さいころ神様に会って、人生で一回だけ使える超能力をもらったんだ。で、いま使ってるんだよ。」

なんだろう、ボケてしまったんだろうか。それとも冗談を言ってるのだろうか。
ヘラヘラ笑う父の表情からは真意を読み取れず、とりあえず私はしゃがみ込む。

「…どんな能力なの、それって。」

「過去に、好きなモノを送れるんだよ。なんでも送れる。一回だけな。それで、いま、砂を送っているんだ。ほら、見てみろ。」

そう言いながら、父は砂を握って自分の手のひらに乗せた。途端に、パッと消える。もう一度乗せる。また消える。

「な、本当だろ? それに、ホラ! 立て、美伊子、立て。」

あっけにとられながら立ち上がる私に、父は嬉しそうな顔で向かい合う。

「見てみ。こんなに暴れたのに、服も肌も、髪も、ぴかぴかだろ! 砂で汚れると掃除が本っ当に面倒だけど、もう過去に送ったからな。心配ナシって訳だ。」

背中も、靴も見てくれ、ほらほら。
言われるがまま観察するが、確かに。自分のスニーカーは内も外も砂まみれだが、父の革靴には砂粒ひとつついていない。

すべて、あの瞬間。私が6歳のときに見た、ドライブ中の父の右手に転送されている、ということなのか。

ていうか、ていうか。

 

「ていうか、なんでそんなことに使うの? な、なんだかわかんないけど、もっとすごい事とか、ピンチのときに使えばいいのに!」

 

狼狽する私をよそに、父は「いいの、いいの。」と笑うばかりであった。

つられて、もうどうでもよくなって、私も吹き出してしまう。

「ククッ、フフッッ…。マジで、なんなのそのパワー。そんなのアリ?」

 

ありだよ、美伊子。なんでもあるんだよ。

この世はなんでも起きるよ。

 

見せつけるようにジャンプを繰り返す父の向こう、水平線に太陽が落ちていく。

夕焼けに照らされて、空中に舞った砂がキラキラと輝いていた。

 

<了>

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